『ストーカー』(1979年)~自由に読み解いてみる

原題:STALKER

1979年 ソ連 161分/監督,美術:アンドレイ・タルコフスキー/原作,脚本:アルカージー・ストルガツキー ボリス・ストルガツキー/音楽:エドゥアルド・アルテミエフ/引用画像:チラシ,CINEMAだいすき! ファンクラブ会報(蒐集品) 本編映像

■タルコフスキーは本作を「一種の寓話」といっていたらしいんです。で、それがどんな寓話なのかというと、おそらくは旧約聖書のイザヤ書34章と35章あたりをもとにした作品なんじゃないかと思うんです。タルコフスキーはその場景を借りながら、自身の宗教観や社会観を描いているように見えます。平たくいえば『ストーカー』は、イザヤ書を原作に選んで、それを現代社会ものとして大胆にアレンジした風刺劇ということになります。

■持っている聖書には34章に「エドムの裁き」という題がついていて、このエドムというのは地域や民族の名前なんですが、もともとは“赤い”を意味すると書いてありました。で、この赤色って、やっぱり社会主義の旗の色を連想させるじゃないですか。ということから、タルコフスキーは祖国と、そこに暮らす人間のあり方にたいしての意見を、SFというかたちを借りて表しているんじゃないのかなあ……。なんて思ったわけです。ぼくは聖書の一部分しか読んでいないので考えは浅いんですが、探っていくと当てはまる部分がそれなりに出てきたので、画像とともに解説していきたいと思います。

※イザヤ書は「ウィキソース 口語訳 イザヤ書」で検索すれば、日本聖書協会のものが出てきますよ。

 

■では、まず、登場人物の説明を。真ん中にいるのが主人公である案内人。向かって左は物理学者。そして右が作家。本作はゾーンと呼ばれる案内人にとっての聖地と、訪問者の願いを叶えてしまう霊験あらたかな奇跡の部屋についてのお話なので、ゾーンをあがめる案内人の本当の役回りは熱心な信徒・巡礼者ということになります。で、次に物理学者の役回りは、手製の爆弾でもって人々の心の拠り所となる可能性を秘めたその部屋を破壊してしまおうと考えているので、唯物論の人間。そして虚無的で、「三角形ABC」という言葉を茶化すように否定的な意味で使う作家は無神論者。この「三角形ABC」には含みがあって、おそらくは三位一体(さんみいったい)のことを指しているんでしょう。

■巡礼のため当局の監視所を強行突破する場面。「ゾーンへの立ち入りを禁ずる! 侵入者は直ちに銃殺だ!」という恐ろしさ。信教は独裁政権にとってはやっかい。という理由から、民主化以前の東欧諸国では宗教が抑圧されていたんですよね。この場面はそういったことの比喩に見えます。

■三人がゾーンに入った場面。案内人が、「おかしいな、花の香りがしなくなった」といいます。ここには以前、花が無くてもその香りがあったというので、この地点が宗教的神秘の世界に入るポイントだと思ってよさそうです。いまは芳香が失われたというのは、人々の心の中で神の存在が弱まりつつある、ということかな? また、不浄とされる生物<ヤマアラシ>の名前や、得体の知れない遠吠えなどもあり、その後の廃棄戦車、消失した人間の話などとあわせると、<国なき所>のイメージに重なります。

■ゾーンの進み方にはゾーンが定めたルールがあり、それを守らなければ命を落とすこともあるという。そこで彼らはある道具を投げて進路を決めるんですが、それはナットの中心に包帯をとおした、少々奇妙なものなんです。で、ナットって六角形ですよね。そして六角は二つの三角を逆さまに重ねた図形です。これ、ユダヤ教の象徴、ダビデの星を連想させます。旧約聖書を勉強すれば、この道具の謎が解けるかもしれません。

■黒犬ですが、これは国なき所に棲んでいる<山犬>のことですね。この子が遠吠えの正体でしょうか。犬は聖書の中では好意的に書かれていないらしく、しかもこの犬の色は破壊や罪とも結びつく黒です。じゃあ、なぜ人々に希望をもたらそうとする案内人の持ちものがこれなのか。まあ、おそらくは映画の中における案内人の立場が、御上(おかみ)から厳しく禁じられていてもなお、一途に謎の部屋を信仰し続ける、国にとっての裏切り者だからでしょう。つまり、彼はこの世界においては、きわめつきの異端なんです。だから犬がついてくるし、色も黒なんです。ただし中世以降には、犬は信仰や忠誠をあらわすものとして登場するようになってきたとのことなので、本作では善い、悪い、両方の意味が入っているように思います。また、あるいは、黒=司祭の服装=この犬がゾーンの聖職者、という見立てなんかも寓話らしくて面白いですけどね。そして理由の二つめ。こちらはもっと単純ですが、西洋美術の中では狩人の持ちものとなるからです。映画と違って原作の主人公はゾーンに侵入して宇宙人が残していった物品をかっぱらってくる、いわば密猟者なんですね。だから、その名残で案内人は犬を連れている、そういう解釈でもいけそうです。

■唐突に出てくる炭火。生命感あふれる真っ赤な火で美しいですね。力強さがあって、ぐいっと引きつけられます。炭火はキリストを象徴することもあるようです。

■35章5節。登場人物たちが意味ありげに、じっとカメラを見つめる。この違和感の強い演出が何かのサインとしか思えなかったので、映像の意味を探って謎なぞを解いてみようかという気になったわけです。

■井戸に何かが落ちて音を立てる。静寂が破れ、銀色の波紋は大きく揺れて変化する。井戸に投げ込まれたものが石だとすると、キリスト教的にいろいろと読みようのあるイメージとなります。でもこの場面、そういったものであるのとあわせて、和の美的理念も強く感じさせます。短く簡潔に詩的感情を伝えてくる方法が、俳句を思わせるんですよね。タルコフスキーが論文で取り上げたことがあるという、「古池や 蛙飛びこむ 水の音」のバリエーションでしょう。

■これは排水トンネルですが、まるで洞穴のように見えます。イエスが生まれた場所は洞穴とされているので、ここからだんだん神秘のムードも強まってきますよ。で、ベツレヘムにはキリスト降誕のいい伝えがある洞穴を中心とした、降誕教会というのがあるんですってね。そのイメージでいえば、このトンネルの上にある施設はやはり聖堂なんです。サブカル視線では、この場面のデッドテックな美術が本当に素敵ですね。

■トンネルを抜けると中東であった。ということで、一行はとうとう<荒野 あれの>にきてしまいました。それにしても、建物の内側に砂漠があるこのマジカルな景観! 大きく立派な柱が何本も並んで、まるで神殿です。壁で囲まれた空間に波打つ砂があるのは枯山水を連想させますし、ここも非常に素晴らしいSF画ですね。34章に出てくる、つがいの<トビ>も飛んでいますよ。耳を澄ますと川の流れも聞こえてきて、35章6節後半の場景を思わせます。井戸はいろいろと解釈できますが、ポイントはこの井戸が涸れてしまっているところです。これは、作家は神を信じることを偽善だと考えているので救われず、生きる目的や希望を見いだせずにいる、という意味でしょうか。

■目的地にたどり着くと物理学者は鞄から爆弾を取り出した。学者は「この部屋が悪用されたらえらいことになるぞ。だから爆破する!」といい、案内人は「人間には希望が必要じゃないか!」と必死に抵抗する。三人はもみ合いになるものの、結局学者は案内人の言葉を聞き入れて思いとどまる。そして疲れ果てた三人は部屋の前に座りこみ、何かに思いをめぐらしながらそのまま時間が過ぎていく……。物理学者も作家もこの巡礼のどこかで、「人々のために、やっぱり神はいてくれたほうがいいのかも」という心境に、おぼろげではあっても変わったんじゃないでしょうか。それで、畏敬の念なのか、根が善人という理由からなのか、自分の願いについてはあきらめて旅を終えるわけです。で、この場面でも建物内で雨が降ったりする不思議な現象があるんですが、それとあわせて見てほしいのは後ろの壁にある長方形の出っ張りです。これは中心のへこみ部分を読ませようとしていて数字の1ですね。1は神を示す数字でもあります。なので、いま彼らは本物の神の家にいて、そのわざを目の当たりにしているという図になるんです。ちなみに雨は祝福や慈悲を意味するそうですよ。これ、本当に心がある映画ですね。

■三人の争いが収まったあとで挿入されるイメージ。水たまりの中の魚と、そこへ広がってゆく油。油と魚で、とてもわかりやすく救世主・キリストの象徴となります。この部分、DVDで観ていたときは油ではなくインクだと思っていたんです。でも、インクは学者や作家のものなので、それはそれで二人の洗礼とか、そういう解釈にもなり得るような気がします。

■上の画像3枚は、34章9・10節、そして35章1・2節あたりを思わせるイメージ。後ろの原発は冒頭で一行が出かける場面でも、帰ってきてからの場面でも、いつも憂鬱な感じで煙を吐いています。

■35章6節前半、そして10節。案内人が娘を肩車している姿、これは<その頭に、とこしえの喜びをいただき>でしょうか。この娘は口がきけないんですが、映画のラスト、彼女の心のうちでは天の父を讃えて喜びに満ちる、第九の歓喜の歌が高らかに鳴っていて、ここは<おしの舌は喜び歌う>にあたります。イザヤはキリスト誕生を預言した人物でもあるので、娘が奇跡の力を発揮することについては、神がついに案内人の願いを聞き入れ、この時代に新しい救世主が生まれた、という解釈でいきたいです。その考えでもって歓喜の歌の訳を読んでいると、すごく感動するんですよね。暗いままで終わるんだなと思わせておいて、最後の最後にハッピーエンドに転じるにくい演出です。

■以上です。わかっていないがゆえの自由すぎる解説なので、聖書やタルコフスキーについて詳しい方には鼻で笑われてしまうのでしょうが、それでも、うまく結びつけることができた部分もあると思います。で、ぼくが本作を初めて鑑賞したのは1987年、よみうりテレビの映画番組『CINEMAだいすき!』の、ソビエト映画特集のときでした。手元にある番組ファンクラブの会報を見てみると、放送日時は12月29日の26時15分からとなっております。年の終わりの寒い深夜にタルコフスキーなんて、考えごとが好きなひとにとってはちょうどいいタイミングですよね。当時、この映画の内容はまったく理解できませんでしたが、でも、その映像の魅力に強く引きつけられたことはよく覚えています。映画が教養という棚に並んでいてもおかしくなかった時代の、いい思い出です。

 

 

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